日常や生活に根ざしながら探究を重ねた人 河西秀哉 / 名古屋大学准教授・日本近現代史 週刊読書人2023年9月22日号 言葉以前の哲学 戸井田道三論 著 者:今福龍太 出版社:新泉社 ISBN13:978-4-7877-2300-0 戸井田道三に関する本の書評を書いてくださいと依頼されたとき、象徴天皇制研究者である私が書評をするならば、正直、天皇制のことについて書けばよいのかなと考えた。それは、戸井田の初めての著書である『能芸論』(伊藤書店、一九四八年)が、必ずといってよいほど、「天皇制と能楽の関係を説いた」と説明されるからである。戸井田自身、その本の「はしがき」のなかで、「敗戦後は天皇制について自由に論議できるようになつたため、いわゆる絶対主義の研究などめだつてすすんでいるようである」としつつ、「文化の方面については、まだこれというほどのしごとは見られない」と語り、文化の側面から天皇制を検討しようとする試みだと宣言している。私は、敗戦後にそうした書籍を著した人が戸井田であるとのイメージを持っていた。 しかし、本書『言葉以前の哲学』を読んで私の予想は裏切られた。天皇制のての字も出てこないからである(『古事記』に関する戸井田の思考への言及が、天皇制に関する直接ともいえる唯一の言及であろうか)。では、私にとって、本書は期待外れであって、得るところはなかったのか。それがまったく逆なのである。戸井田がこれほどまでに広く、かつ深い思考を有しており、だからといって抽象的で難解な言葉で論じるのではなく、日常や生活に根ざしながら探究を重ねていった人物であることを本書から初めて知ることができた。それだけに、本書から感じさせられる問題は多岐にわたった。 本書は、戸井田の教えを受け親交を結んだ人類学者である今福龍太氏が、戸井田の思考に寄り添いながら、それだけにとどまらず様々な思想家などとの対比をしつつ、彼の思考の意味を提起するものとなっている。評伝とも書かれているが、生まれてから亡くなるまでの戸井田を時系列的に説明するものではなく、「住」「舌」「母」「性」「時間」「色」「旅」をテーマにして、戸井田の思考をひもとき、私たちに示している。 私の力不足で、今福氏が論じた戸井田の思考すべてを紹介することは難しい。一つだけ、歴史研究者として触発された部分について触れておきたい。戸井田は正史として認知・登録されていく「歴史」には多くの欠落と忘却があるという考えを持っていた。これは、彼の子どものころの体験や神奈川県の湘南辻堂での生活が大きく関係していた。今福氏は、戸井田をあえて語義矛盾の「非土着のネイティブ」と評価し、媒介者としての意識を有していたと見る。この「非土着のネイティブ」の意識こそが、生活意識を深く自らの内部と「歴史」との絡み合いのなかで重層化させ、戸井田のなかで正統の「歴史」を超えていく何かを生み出した。正史としての「歴史」からはこぼれ落ちる、個人の経験や主観のなかに現象する無数の異なった「歴史」の糸を戸井田は見いだしたのだと今福氏はいう。 戸井田のこうした「言葉以前の哲学」ともいえる「歴史」の発見は、どこか民俗学的でもあり文化人類学的でもあるようで、しかし独自のものがある。実は歴史学も、政治や経済などの大きな「歴史」だけではなく、また客観的論理で展開できるものとは限らないひとりひとりの人の声に耳を傾け、そしてそれぞれの「生存」に注目するような方法論が、この十数年ほど展開されている。戸井田のようなあり方を見ると、こうした新しい歴史学のあり方をさらに研ぎ澄ますことができるのではないかとも感じる。 本書を読んで戸井田の思考を知ると、この文章の最初で触れた天皇制と文化の関係性を、彼の思考に即して考えてみたくなった。天皇制こそがまさに私たちの日常や生活に深く根ざした、しかし普段はそれほど意識しないものであり、それこそ戸井田のいう「歴史」なのではないか。私自身の研究課題を与えられた点でも本書との出会いに感謝したい。(かわにし・ひでや=名古屋大学准教授・日本近現代史)★いまふく・りゅうた=文化人類学者・批評家。1980年代初頭からメキシコ、カリブ海、アメリカ南西部、ブラジルなどに滞在し調査研究に従事。2002年に〈奄美自由大学〉を創設し主宰。著書に『ヘンリー・ソロー野生の学舎』『クレオール主義』、『群島―世界論』など。一九五五年生。