「君たちはどう生きるか」という問いへの、ひとつの解 八木寧子 / 文芸批評家 週刊読書人2023年9月29日号 ラウリ・クースクを探して 著 者:宮内悠介 出版社:朝日新聞出版 ISBN13:978-4-02-251926-9 エストニア。 遠く離れたこの地のことを、どれほどの人が知っているだろう。恥ずかしながら、評者も本書を読むまでは彼の地に思いを馳せることさえなかった。 二〇二二年のロシアによるウクライナ侵攻のあと両国と周辺各国、ヨーロッパの歴史について知るなかで、他国と地続きで接していることの困難さを多少なりとも想像する機会はあった。だがそれは、所詮乏しい想像力の範囲内であって、そこに暮らす人びとの顔、彼らの日常や夢が明確に形あるものだという認識には至らなかった。 小説はもちろん虚構だが、精到な描写が重ねられる登場人物たちはしっかりとした顔をもち、架空の者とは俄に信じ難い。社会背景の的確さもあるが、ページが進むにつれ、存在の輪郭が濃くなるのである。 一九七七年。バルト三国のひとつであるエストニアは、他国による幾度かの支配を経て、第二次世界大戦後、再びソ連に併合されていた。多くの非エストニア人が流入していた時代に「ラウリ・クースク」は生まれた。彼はエストニア人だが、周囲には両親はじめかつての動乱を経験した世代も、そしてソ連に近い者も少なくなかった。 世界的に黎明期であったコンピュータ・プログラムにおいて卓抜した才能を開花させたラウリは、進学先の中学で盟友・イヴァンと出会う。彼はロシア人であったが、プログラムコンテストで互いの名と作品を知り、尊敬し魅かれ合っていた間柄なのだ。 ラウリとイヴァンは、イラストの得意な同級生、カーテャを仲間に誘い、三人でプログラミング技術を切磋琢磨しながら夢や希望を語り合い、かけがえのない少年少女時代を過ごす。だが、二〇二三年の現在地に立つ私たちは、その大切な時間が本人たちの意思とは関係ない強大な力によって断たれることを予感する。作中では少し前にチェルノブイリ原発事故が起きており、ほどなくベルリンの壁が崩壊。民主化の波はエストニアにも及び、一九九一年、ソ連崩壊ののち名実ともに独立を果たすのだ。 激動の社会が、彼らの立ち位置と行く先の明暗を非情なまでに分かつ。共産党員の息子であるイヴァンは学校を去り、パルチザンを祖父にもつカーテャは独立運動にのめり込む。そしてラウリは、あれほど抱いていたコンピュータ・プログラムへの熱を失い、まったく別の仕事に就いて慎ましく暮らす道を選ぶ……。 本書は、「ラウリ」をさがす「わたし」の視点によって綴られる。「ラウリ」は、生きていたら現在四十代半ば。「わたし」が誰なのかは後半まで明かされないが、無数の問いからはじまる物語は、「ラウリ・クースク」という、いわば名もなき一個人の生きた足跡を辿ることでいくつかの時代を反芻し、「わたし」と共に問いの本質を焦点化していきながら、今を生きる私たちに突きつけられているものを鮮明に炙り出す。 国とは何か。自由とは何か。本当の世界とは一体何なのか――。 周知の通り、現在のエストニアはIT先進国である。そこに至る萌芽の時代に何があったのか。ラウリの周辺を追うことで必然的に描かれるそれらは単なる物語の背景ではなく、コンピュータの発展に寄与した無数の人たちの歴史、足跡と夢の証でもある。 だが悲しいかな、コンピュータも原子力同様、本来は他者を傷つけるために発明されたものではないはずだが、争いを生み、激化させる道具ともなってしまった。「領土ではなくデータ」として扱われる「国」。「情報空間に不死を作る」という、怖気を覚えるような壮大な目論見……。 ラウリは戦って歴史を動かした人間ではなく、逆に、歴史とともに生きることを許されなかった人間である。ある意味、わたしたちと同じように。 冒頭に記されたメッセージと、カバーに描かれた少年少女の柔らかな笑顔が、時代や社会に翻弄される人びとの凡庸な在りよう、ささやかな幸を純粋に湛えるようだ。 「コンピュータの鼓動を打つ水晶発振器(クリスタル)」の精霊に捧げた「詩」としてのプログラム。「無から有」を生み出すそのコンピュータ・プログラムに魅了され、「自分の見えるこの世界」の豊かさを他者に伝えようと懸命だった少年ラウリ。私たちのなかにも、かつて「ラウリ」はいたのではないか。 夢と希望、挫折。人は生まれる場所や時代を選べない。だからこそ十全に生きよ、という普遍的な願い。「君たちはどう生きるか」という問いへの、これはひとつの解でもある。(やぎ・やすこ=文芸批評家)★みやうち・ゆうすけ=作家。著書に『盤上の夜』(日本SF大賞)『ヨハネスブルグの天使たち』(日本SF大賞特別賞、わたくし、つまりNobody賞)『彼女がエスパーだったころ』(吉川英治文学新人賞)『カブールの園』(三島由紀夫賞)『遠い他国でひょんと死ぬるや』(芸術選奨文部科学大臣新人賞)など。一九七九年生。