沖縄近代史を織り直す斬新な試み 崎濱紗奈 / 東京大学東洋文化研究所東アジア藝文書院特任助教・沖縄近現代思想史・ポストコロニアル理論 週刊読書人2023年9月29日号 生きた労働への闘い 沖縄共同体の限界を問う 著 者:ウェンディ・マツムラ 出版社:法政大学出版局 ISBN13:978-4-588-60368-6 本書は、小農や職工といった近代沖縄を生きた小規模生産者たちが、自らの生の在り方を自らで決定するための方法を手放さないための多種多様な闘争から、沖縄近代史を織り直す斬新な試みである。その試みは鮮烈かつ豊かで、そして何よりも、沖縄を語る定型に慣れ親しんでしまった者たちを「ウチアタイ」(身に覚えがあり恥じ入ること)させる力を持つ。 本書の主な登場人物は、次の三種類に分類され得る。第一に、官僚や商人といった、日本本土から沖縄へやってきた者たち、第二に、沖縄出身の知識人や旧士族や資本家といった地元支配層、そして第三に、近代沖縄を生きた圧倒的多数としての小規模生産者たちである。もちろん、第一、第二、第三それぞれが、内側に多様な襞を抱え込んでおり、単純な一枚岩であるわけではない。そこには「近代」、言い換えれば、資本主義と、それを故意に堰き止めたり、あるいは積極的に推進したりするための政策をめぐって、さまざまな立場や態度が乱立・並立している。本書の最大の魅力は、こうした乱立・並立をわかりやすい構造でまとめ上げるのではなく、その多層性/多重性/複数性/偶発性を丁寧に開いて見せていることである。 従来の沖縄近代史研究、あるいは沖縄近代思想史研究において、主役となるのは往々にして沖縄出身の知識人たちの言説であった。そこには、彼らの試みを日本の帝国主義に対抗するための郷土ナショナリズムとして好意的に解釈する立場から、同化主義(「沖縄」の「日本」に対する同化を推進する態度)を結果的に推進したとして批判的に解釈する立場まで、幅広く含まれている。立場の違いはあれど、両者ともに「日本政府による沖縄の差別的な処遇を記録する」(一四頁)という課題を抱えていたのであり、その課題は「裏切りの連鎖を終わらせる」という切迫感ゆえに生じたものであった、とマツムラは理解を示す。また、この切迫感は「国家に忠誠をつくしてきた沖縄の人びとがなぜ戦争末期に、より重要なチェスの駒を守るために捨て駒のように犠牲にされたのかを問う」(一四頁)ものであり、このような感情は、沖縄戦終結後七十八年が経った今も継続している。 だがマツムラは、こうした立場のいずれもが実は共有してしまっている落とし穴を鋭く指摘する。それは「沖縄の過去と現在を、従属的なものとして理解することから始まる歴史」観(一八頁)である。こうした歴史観は「最初から結末が決まっているような単一の物語を語る傾向」(一三頁)を強く持つ。そしてそれは、本来は沖縄の絶望的な状況を構成している権力を批判するために生み出されたはずが、「なぜこのような不幸が起きたかを証明すること」に行き着くしかなく「国家権力者と資本家が沖縄の人びとを差別する政策を実施するために用いた言説を知らず知らずに正当化してしまうのである」(一八頁)。ここで正当化とは、現状肯定を意味するのではなく、固着化された状況や、それを形作っている物語を追認してしまうことを意味している。 この指摘こそが、沖縄研究に関わる者や、「沖縄問題」に関心を寄せる者に対する「ウチアタイ」を呼び起こすものである。なぜならマツムラの指摘は(本書の原題であるThe Limits of Okinawaが示唆するように)、沖縄を「原罪」を背負った場所として見なすことへの批判はもちろん、そうした「原罪」を沖縄に押し付ける「本土(ヤマト)」や「アメリカ」に抵抗する「沖縄」という、抵抗のための定型をも批判し、それを保留することを求めているからである。現状を打開するための闘いや政治に参加しているつもりが、現状を構成する支配的な物語と、実のところ奇妙な共犯関係を結んでしまっているかもしれないという不穏な事実を本書は読者に対して突きつける。 では、どのような別の歴史の編み方が可能なのか。マツムラが注目するのは、近代沖縄を生きた名もなき人々——著者は決して、こうした存在をロマン化・特権化してはいないことに注意を払うべきである——が、自らの生を自らで決定するための「生きた労働」を守るために発露させた数々の力である。本書はこれを、アントニオ・ネグリが言うところの「構成的権力」として読み解く。重要なのは、本書末尾の「翻訳によせて」(冨山一郎)にあるように、「あくまでもどこに向かうか未決である混交の場から思考しようとする強い意志の表れ」(三五二頁)が本書を貫いている、ということだ。決定論や段階論によって沖縄における資本主義の展開を理解しようとするのではなく、その時/場所において、複数の可能性が胚胎していたことに着目すること。実際に展開した歴史とはあくまで、そのいずれかの可能性が現実化したに過ぎないこと。つまり、歴史は常に偶発性に晒されているということ。これが、本書によって提示される、複数存在する別の在り方(alternatives)を開いてみせる視点である。 本書では小農や職工らによる闘争がフォーカスされるが、重要なのは、これらは決して正しく革命を遂行したものではない、ということである。表面だけを見れば、彼ら・彼女らは、自らを束縛している身近な権力に抵抗した結果、より大きな搾取の構造である資本主義や帝国日本の中に包摂されることを自ら望んだ愚かな存在であるかのようでもある。だが、マツムラがまさに疑義を呈するのは、「抵抗という大きなカテゴリー」(二四六頁)によって、これらの闘争を賞賛したり否定したりする態度である。 本書の魅力を余すところなく書き尽くすのは至難の業であるので、マツムラが当時の新聞記事や行政文書、記録、ウタ、詩、踊り、小説といった多種多様な素材を自由に横断しながら物語を編み上げる様を、読書を通してぜひ体感してほしい。最後に、この物語は、近代沖縄という区切られた過去に関する動かぬ物語ではなく、現在の沖縄を考え、政治を開始させるための方途を「ウチアタイ」とともに我々に提示するものであることを付言しておきたい。(増渕あさ子・古波藏契・森亜紀子訳)(さきはま・さな=東京大学東洋文化研究所東アジア藝文書院特任助教・沖縄近現代思想史・ポストコロニアル理論)★ウェンディ・マツムラ=カリフォルニア州立大学サンディエゴ校歴史学部准教授・近代日本史。論文にPostwar Reconfigurations of the US Empire and Global Military Occupationなど。