書評キャンパス―大学生がススメる本― 河辺宏太 / 二松学舎大学文学部国文学科1年 週刊読書人2023年10月6日号 ハンチバック 著 者:市川沙央 出版社:文藝春秋 ISBN13:978-4-16-391712-2 〈中絶がしてみたい〉 〈普通の人間の女のように子どもを宿して中絶するのが私の夢です〉 本書の主人公である井沢釈華は、著者・市川沙央と同じく、難病であるミオチュブラー・ミオパチーを患っている。右肺を押し潰すかたちで極度に湾曲した背骨。仰臥時には欠かせない人工呼吸器、痰を吸い出すために手放せない吸引器。重度障害を抱えながら親の遺したグループホームで生活する釈華は、密かに「中絶がしたい」という欲望を抱えていた。釈華はそのような過激な思想を心の内で持ちながら、その欲望はTwitterに放出するだけで、決して実生活では表さない。むしろ彼女はグループホームの中で真面目な女性として生活していた。しかしある時、ヘルパーである田中さんにTwitterアカウントを特定されたことにより、「胎児殺しの欲望」を知られてしまう。 「中絶がしてみたい」という釈華の願望は、摩擦への欲求の表れであろう。通信制大学の授業で扱った障害女性に関する諸問題に、彼女は自分を重ねることができなかった。それは彼女が重度障害者であることを除けば非常に恵まれた環境に置かれているからだった。両親とその経済力によって手厚く庇護されてきた彼女は、他者との摩擦を経験しなかった。体力がなく出産も育児もできず、入浴介助の場でヘルパーに生殺与奪の権を簡単に預けてしまうような彼女にとって、中絶は彼女に許された数少ない摩擦の手段なのであった。 弱者男性を自称する田中さんは、経済力のある釈華に対してルサンチマンを募らせる。釈華はそんな田中さんに、大金と引き換えに自身の中絶願望の協力者になってもらうよう持ちかける。しかし、その中途のオーラルセックスの最中に誤嚥性肺炎を起こし、計画は潰えてしまう。結局、田中さんはその後すぐに仕事を辞め、釈華は求めていた摩擦を経験することなく幕を閉じる。 小説の最後に、「紗花」という別の視点が登場する。この視点では釈華が望む理想の結末が描かれている。風俗店で働く紗花の、田中さんを思わせる「お兄ちゃん」は釈華を思わせる「利用者さん」を殺害していた。障害女性に憐れみを向ける田中さんではなく、弱者男性のルサンチマンを受けきれない釈華ではなく、思うままに他者と摩擦できる釈華の理想が示されている。そうして釈華の中絶の欲望を叶えるために、紗花は孕むのである。 本書は、出生前診断と人工中絶を巡る社会問題や、健常性を要求する紙の本を信仰している読書文化の「健常者優位主義(マチズモ)」など、多くの事柄に対する問題提起がなされている点も重要な魅力である。市川は芥川賞の受賞会見において「私は強く訴えたいことがあって(中略)書きました」と発言しているが、それを訴えるにあたって「小説」という媒体を用いたのは非常に効果的であり、市川はその手段を見事に扱い遂げているといえよう。多くの読者にとって異邦であるはずの重度障害当事者の世界に、我々はいつの間にか没頭し、共感している。一人の障害女性の思いを、一人称視点のユーモラスかつ読みやすい文体で描ききった本書『ハンチバック』。必読である。★かわべ・こうた=二松学舎大学文学部国文学科1年。義手ユーザで、障害と文学に関心がある。自身でも小説を書き、最近は現代短歌や自由律俳句にも挑戦している。