後に惑星的な視座を獲得する学問の巨人を支えた知見 下楠昌哉 / 同志社大学教授・英文学 週刊読書人2023年10月6日号 聖杯の神話 アーサー王神話の魔法と謎 著 者:ジョーゼフ・キャンベル 出版社:人文書院 ISBN13:978-4-409-14069-7 さらっと本文中で述べられている「キャンベルの仕事全体が彼のアーサー王伝説の研究によって生み出されてきた」という一言が、本書の要諦と言ってよいだろう。ジョーゼフ・キャンベルは、洋の東西を問わず聖と俗、双方の神話の共通項を見事に括り出し、時空にまたがる大きな絵を描き出して見せた博覧強記の比較神話学者で、日本でも主要著作の多くが邦訳されている。この大学者の名前を冠したジョーゼフ・キャンベル財団は、キャンベルの研究を保護・発展させることを目的の一つとした非営利団体で、キャンベルが残した膨大な未発表原稿や講義録などを保管している。それらの資料を活用したジョーゼフ・キャンベル選集は、一九八七年のキャンベルの死後三十年以上を経た今も刊行され続けており、本書はその一冊として二〇一五年に刊行されている。 本書で特筆すべきは、補論としてキャンベルの未刊行修士論文『「災いの一撃」の研究』が収められていることである。後に惑星的な視座を獲得する学問の巨人であっても、中世ヨーロッパ文学のアーサー王伝説における一モチーフの研究から学問の道に本格的に歩み入った事実を目にするのは、感慨深い。(この修士論文の第一部序盤の引用からエヴァンゲリオンのロンギヌスの槍の姿を想起する読者は多かろう。)一九〇四年ニューヨーク生まれのキャンベルは一九二七年に修士論文を提出した後、古フランス語とプロヴァンス語を学ぶため、つまり中世のアーサー王伝説の研究をさらに進めるべくパリを訪れたものの、パリ滞在は一年ほどで、その後はミュンヘンに移って研究の範囲を広く大きく拡張していった。キャンベルのその後長きにわたっての研究の発展をアーサー王伝説の研究で培った知見が支え続けた、と本書の編者、アメリカの神話研究者エヴァンズ・ランシング・スミスは示そうとしている。 短いパリでの滞在は、キャンベルに劇的な出会いを準備していた。そのころパリを席巻していた話題はジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』で、ジョイスに興味を持ったキャンベルは、後に専門外のジョイス研究で瞠目すべき研究成果を残す。ヘンリー・モートン・ロビンソンとの共著『『フィネガンズ・ウェイク』の合い鍵』である。ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』は現在でも難読難解の書として知られるが、その奇書が刊行されてからわずか五年後の一九四四年に、古今東西の文物に関する博識と神話研究で培った洞察力でもって、キャンベルはジョイスの大著の概略を示して見せたのである。 キャンベルは長い学問キャリアにおいて、お気に入りのジョイスとアーサー王について何度も講演を行っていたようだ。ジョイスに関しての論考や講演録をまとめたキャンベル選集の一巻は、早くも一九九三年に初版が出版されている。ジョイスに比べてアーサー王に関する講演などの数は少なかったようで、本書からはそれらの資料を繫ぎ合わせて一冊の書籍を編んだ苦労が伝わってくる。おそらくはほとんどが後年の講演からで、なかには複数の講演の内容を繫ぎ合わせたものもあり、キャンベルのアーサー王研究の発展の様子を経年的にうかがうのは残念ながら難しい。 斎藤伸治による訳は口頭による語り口を念頭におき、活き活きとして読みやすい。惜しまれるのは訳者が収録を意図していた解説がキャンベル財団の意向で掲載できず、簡潔なあとがきとなっていることである。キャンベルの研究の不朽化を意図する財団として、翻訳であってもできるだけ刊行されたままに近い形で出版したいというスタンスは理解できる。ただしそれゆえ、キャンベルの時代から上積みされてきた学問的知見を補う作業は読者自身に委ねられている。評者としては「ケルト」の概念の扱いが気になったが、おそらく他にもそのような点はあるだろう。 アーサー王ものの読み物として本書を見た場合、ハイライトは一番長い第4章「ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの『パルチヴァール』」だろう。訳文の読みやすさもあって小説一冊分を読んだ気分が味わえる。アーサー王のキャラ紹介の第6章、モチーフ紹介の第7章を先に読んでから、トリスタンとイゾルデの物語を扱った第5章や第4章に行ってもよいかもしれない。アーサー王伝説に関しても、たちまち蒙を啓いてくれるような記述(宮廷風恋愛は不倫になるしかない、など)がいくつも見られるが、切れ味鋭いそれらの諸点に関しては、アーサーリアンの先生方からの評価を俟ちたい。(斎藤伸治訳)(しもくす・まさや=同志社大学教授・英文学)★ジョーゼフ・キャンベル(一九〇四―一九八七)=アメリカ生まれの神話学者。比較神話学や比較宗教学で知られる。著書に『千の顔をもつ英雄上・下』『宇宙意識 神話的アプローチ』『神話の力』(共著)『ジョーゼフ・キャンベルの神話と女神』など。