書評キャンパス―大学生がススメる本― 渡辺楓 / 二松学舎大学文学部国文科2年 週刊読書人2023年10月13日号 家庭用安心坑夫 著 者:小砂川チト 出版社:講談社 ISBN13:978-4-06-528857-3 『家庭用安心坑夫』という異質なタイトルに惹かれて手に取ってみたはいいが、初めから終わりまで「安心」できるような箇所は一つもなかった。「家庭」という言葉の暖かさもこの本には似合わないように感じた。そしてこの本に何度も登場する「坑夫」という存在、概念のようなものが、筆者を含めこの本を手に取った読者たちを惑わせ、混乱させる。こうして謎の「坑夫」に狂わされた一番の被害者が、この本の主人公であり、娘であった。 主人公は藤田小波といい、専業主婦をしながら夫とアパートで暮らしている。ある日彼女は日本橋三越で、秋田の実家にしか存在しないはずのけろけろけろっぴのシールが貼られていることに気づく。その奇妙な体験の後、小波はテレビの画面越しにある男を見つける。〈立っていたのはツトムだった。ツトムそのひとだった。〉 小波はこの世にいるはずのない自分の父、ツトムと思わぬ再会を遂げる。実家のシールを貼った犯人がツトムであると考える小波の前に、ツトムは何度も姿を現わす。 ツトムは人形だった。幼いころ、母と小波は、炭鉱のテーマパークへ通った。炭鉱の作業員を模した沢山の人形の一体に会うためである。それを母は「墓参り」と称していた。 思わぬ再会で小波の、ツトムに会いたいという気持ちは加速した。盆にツトムのいる秋田に帰りたい。そう考えたが、夫は強く反対する。〈配偶者がまったく理解できないことを言い出したというときに、このようなまるきり紋切り型の拒絶反応を見せた夫のつまらなさに、小波は噴き出したのだった。〉 しかし小波の思いが変わることはなかった。夫の目をかいくぐり家から出た小波は、実家へ向かう。その後、鉱山のテーマパーク「マインランド尾去沢」で、小波はツトムと再会する。そこでのある出来事をきっかけにツトムへの思いが爆発し、小波を暴走させていく。〈小波には、夫の顔が思い出せないのだった。〉 長いこと眠って見ていた夢から覚め、現実に戻った瞬間はいつだって憂鬱である。しかし小波はやがて、長い間自分を閉じ込めていた幻想を自らの手で振り払っていくことになる。小波は「家庭」を知らない。一連の出来事は彼女の中の「孤独」が招いた結果だったのか。 この小説には救いがない。父も母も夫も、その中心に立つ小波も、全員救われることはない。小波と並行して描かれるツトムの話は断片的であり、その人物像は容易に想像できるものではない。また小波の視点から見るツトムも、得体の知れない幻覚だったり、ただのテーマパークの人形だったりする。小波の生い立ち、家族関係が詳しく明かされず、しかも小波の主観で語られているため、その行動の理由がはっきりしていないことが多い。もしくは小波の中でははっきりしていても、読み手からすれば謎のまま、という状況かもしれない。特殊な家庭環境で育ち、労働を避けていることに負い目を感じながらも、なんとか生きてきた小波の前に現れた父。ツトムは小波にとって何だったのか。ツトムは、そもそも本当に、小波の「父」として存在していたのだろうか。★わたなべ・かえで=二松学舎大学文学部国文科2年。作曲に没頭している。音楽にハマったのは、くるりの「ブレーメン」を聴いたのがきっかけ。曲の素晴らしさに衝撃を受け、自分の音楽に対するハードルがぐんと上がった。