重厚かつ軽妙な筆致による紀行文学の傑作 中澤雄大/ ノンフィクション作家 週刊読書人2023年10月13日号 イラク水滸伝 著 者:高野秀行 出版社:文藝春秋 ISBN13:978-4-16-391729-0 日本人のどれだけの人が、イラクという国を知っているだろうか。大方の人は、中東の「怖い国」と感じているかもしれない。評者自身もそうした一人であった。 全国紙記者時代、9・11米同時多発テロ事件に端を発した対イラク戦争(2003年)において、「有志国連合」の一つとして駆り出されてゆく日本政府と国会の迷走ぶりを取材。イラク特措法に基づく「人道復興支援」「安全確保支援」のために現地宿営地サマーワへ派遣された自衛隊の奮闘と困惑を、紙面で繰り返し報じたものだった。 やがてイラク国内では外国人拉致が相次ぐようになり、2004年4月には、「自衛隊撤退」を求める武装勢力によって、日本人3人が拘束される事件が発生。救出交渉へ向かう外務副大臣に同行し、評者も特派された。隣国ヨルダンに踏み止まったのは、日本外務省が「退避勧告」を発出するイラクへの入国が事実上禁じられていたためである。この頃から日本国内では「自己責任論」が噴出し始め、報道目的であっても紛争危険地域へ足を運ぶことは〝悪事〟と見做される論調が増えた。この20年間で大手マスコミの特派員の危険地取材は本社幹部の指示によって格段に制限されるようになり、フリー・ジャーナリストの命懸けのリポートがなければ、知ることができなかった事実も少なくない。 かつての苦々しい記憶を長々記したのも、手にした本書が出色の出来栄えであり、〈結局、自分の目で見てみないとわからない〉(『謎の独立国家ソマリランド』)という、事の本質とは何かを思い出させてくれたからである。著者の高野秀行氏はもちろんどこの組織にも属していない。あえて記せば、早稲田大学探検部OB。現役部員時代からアフリカ・コンゴ奥地の湖に生息するといわれた謎の怪獣「ムベンベ」発見に挑んだり、世界最大の麻薬地帯「ゴールデントライアングル」でアヘンを作って世界初の『潜入記』を書いたりしてきた人である。語学の才と強靱な精神力などを併せ持った「辺境地スペシャリスト」でもあるノンフィクション作家が、新たな作品の舞台に選んだのが、知られざるイラク奥地の湿地帯であった。 歴史の教科書に載るイラクは古代メソポタミア文明の中心地であるにもかかわらず、湾岸戦争以降の治安悪化をはじめ、主要部族(氏族)・主要宗派間の諍いなど、国情は混沌としていると伝えられてきた。こうしたメディアの「ステレオタイプ」的記事によって偏見が植え付けられ、地域への関心を失わせてきた面は否めない。しかし、〈誰も行かないところへ行き、誰もやらないことをし、誰も書かない本を書く〉ことを信条とする著者に、そのきっかけを与えてくれたのもやはりメディアであった。 偶然、「砂漠の国 文明育んだ湿地」という魅力的な見出しが目に飛び込んできたという。フセイン政権が進めた「乾燥化」政策によって壊滅状態となりながらも、復元しつつあるイラク南部の世界遺産「アフワール」の状況を伝える約2300字のルポ(『朝日新聞』2017年1月24日付朝刊)は、著者をその気にさせるのに充分だった。1950年代に英国人探検家がまとめた『湿原のアラブ人』以降、アラビア半島の湿地帯に関する著作は世界中に見当たらないとなれば、著者の血が騒ぐのもむべなるかな、である。 そのための準備と勉強は、「プロ」として怠らない。在京イラク人にアラビア語を習い、アラブの政治・軍事状況からメソポタミア史、古代オリエントの宗教などについて有識者に話を聴く。コロナ禍を挟み、都合3回にわたったイラク滞在の筆致は、古代メソポタミアの生活につながる「文明(国家)」と「非文明(反国家)」の差異と相互依存関係を民俗学的手法で解き明かす重厚な趣と、かつての海外旅行者が必ずと言っていいほど持参したガイドブック『地球の歩き方』の軽妙な体験記のようだ。まさに著者が本書で多用した〈ブリコラージュ〉と言えよう。 水牛と生きる水上の民「マアダン(シュメール)」の自由な暮らしぶりに接し、古くから伝わる木造舟「タラーデ」を建造し、自ら櫓を漕ぐ。現地方言の詩を暗唱し、住民に溶け込む。アフワールが産んだ独特の刺繍布アザールの謎を解明する……そうした旅の途中、不安にさいなまれたこともあったろう。しかし、その筆は常に明るく、好奇心に満ちていて、「怖い国」イラクの魅力をこれでもかと伝えてくれるのである。同道した環境活動家、山田高司氏が描く精緻なイラストは、本文を理解するのに大いに役立った。中国四大奇書の一つ、『水滸伝』に登場する宋代の豪傑達に負けず劣らず、著者が描く登場人物達も実に好漢であった。 イラクの知られざる国情と人々の暮らしぶりを伝える紀行文学の傑作である。(なかざわ・ゆうだい=ノンフィクション作家)★たかの・ひでゆき=ノンフィクション作家。著書に『アヘン王国潜入記』『巨流アマゾンを遡れ』『ミャンマーの柳生一族』『異国トーキョー漂流記』『アジア新聞屋台村』『怪獣記』『未来国家ブータン』『謎の独立国家ソマリランド』など。一九六六年生。