女たちの「エイジェンシー(主体的営為)」を感じとる 嶽本新奈 / お茶の水女子大学ジェンダー研究所特任講師・ジェンダー史 週刊読書人2023年10月13日号 占領下の女性たち 日本と満洲の性暴力・性売買・「親密な交際」 著 者:平井和子 出版社:岩波書店 ISBN13:978-4-00-061601-0 敗戦と被占領という国家や共同体の危機に際して、まずもって作られたのが「性の防波堤」であった。本書の第一章では占領直後からこの「防波堤」作りに邁進する敗戦国日本の有り様が実証的に描き出される。著者の前著である『占領とジェンダー』(有志舎、二〇一四)と重なる内容ながら、より充実した資料によって端的に描出されるのは、自らの生存、保身のために女性を差し出す男たちの姿である。しかも、この男たちによって女は「守るべき女性」と「差し出すべき女性」に二分化されるのだ。 第二章では、第一章で確認した日本本土(内地)の対応と類似の対応が外地の「満洲引揚げ」時にも同時進行的に起こっていたことが実証されていく。つまり、共同体の生存と引き換えに強者に女性を差し出すといった対応である。強者とは、内地では占領軍であり外地ではロシア人であったが、国家にせよ共同体にせよ、空間的距離を超えてほぼ同時に男たちがとったこの発想の同根にあるものを「家父長制の暴力構造」だと著者は看破する。しかもこの暴力構造は、差し出す時には「尊い犠牲」として女をまつり上げながら、生存が脅かされなくなった途端に、「差し出された女」を蔑視し、顧みることすらしなくなるところまで共通していた。 こうした家父長制の構造的暴力を序章から終章まで入れた八章立ての構成で鋭く描き出しつつ、他方で、序章においてなかったことにされてきた「彼女らの存在を歴史の明るみに掬いだす」と謳われるように、これまで顧みられてこなかった女性たちの「声」が本書全体に溢れている。拾い集めた「声」をただ並べているだけではない。著者の一貫したジェンダー分析によってその「声」が発せられた背景と文脈が補われ、そうして提示された「声」からは、受動的に犠牲者にされたと考えられがちな女たちの「エイジェンシー(主体的営為)」をたしかに感じとることができるだろう。 女たちの「声」はそれまでの定型的な物語(ナラティブ)に当てはまらないものが多い。それは、ともすれば集団自決を図ろうとする男性リーダーたちに抗う女たちの「声」であったり、自ら進んで「性接待」へと犠牲になったとする美談への回収に抗う「声」であったり、あるいは、「差し出された女」には性売買経験者や未婚の女が多く選ばれたが、その女たちへの葛藤を吐露する「声」など様々である。 もう一つの特徴としては、子どもの「声」も対象としている点である。「女・子ども」は抵抗する力もなく受難に巻き込まれたと一括りに考えられがちだが、危機的な状況に際しても柔軟に対処していく子どもたちの様子が描かれる。たとえば満蒙開拓団の一つであった太古洞開拓団で一一歳のときに敗戦を迎えた北村(旧姓:澤)栄美によると、度重なるソ連兵の襲撃や性暴力にさらされる女性たちに、ソ連兵が近づいたことを知らせる合図を送るのは子どもたちの役割だったという。そうした命がけの状況下でも子どもたちはソ連兵を揶揄する替え歌を口ずさんでいたという。この替え歌「ロモーズの歌」は第三章末尾にURLが記されており岩波書店ホームページで聴くことができる。 第四章では「パンパン」とよばれた女性たちと、その女性たちと関わりをもった地域や人々が描かれる。前著では「構造的性暴力」が強調されたが、本書ではその中でも発揮される女性たちの主体的営為を浮かび上がらせるとともに、彼女たちと関係を築いた周囲の人々を記録している。「パンパン」に厳しい目を向ける人たちも当然いたが、著者はむしろ社会的弱者であった「未亡人」を含む労働する単身女性と「パンパン」たちの連帯の可能性に光を当てる。ジェンダーと階層の共通性をもってそこに分断を持ち込まない実践は現代においても示唆に富む。 第五章は、著者が出会った紙芝居の「金ちゃん」こと田中利夫の語りを通して、彼が「ハニーさん」と呼ぶ女性たちが描かれる。金ちゃんは米軍のキャンプ・ドレイクがあった朝霞で朝鮮戦争時代に「貸席」屋の子どもとして過ごした人物だ。彼は「パンパン」とは呼ばずに「ハニーさん」と親しみを込めて呼ぶ。子どもの目を通して語られる「ハニーさん」の記憶は、暴力と隣り合わせでありながらも、女性たちの「日常」や、互助会的な役割を果たす白百合会や、仲介者やヒモ男などが紹介されつつ、善悪や男女の二項対立のみでは割り切れない複雑な関係性をも浮かび上がらせる。語りの中には女装して占領軍相手に働いていた「とくちゃん」も登場する。ジェンダー・セクシュアリティのみならずクィアな事例としても貴重な記録である。 第六章では、男たち、とりわけ復員兵の「声」が紹介される。かつて敵兵だった米兵と腕を組んで街を闊歩する女たちの姿を通して敗戦を実感する声は生々しくもある。それは彼らが幻想を抱いていた「大和撫子」像が裏切られたゆえでもあった。他方で、自身が占領地で現地女性に行った性暴力を想起した者もいたという。著者はこれを「「戦争責任」の自覚の最も早い「芽生え」」の可能性として指摘するが、であるならば、その芽を育てることができなかった家父長的社会構造の根深さに暗然とする。 本書には多くの「声」が集められていることはすでに述べたが、それはこれまで語られながらも広く一般的に受け止められてこなかった「声」ばかりである。読者は、女や子どもたちから見た占領期が、これまでのGHQ改革によって敗戦から復興していく日本といった語りと異なることに驚くのではないだろうか。著者は顧みられてこなかった「声」のひとつひとつを取り上げ、丁寧に位置づけていく。そうした作業が可能になったのは、なかったことにされてきたか細い「声」をこれまでにも誰かが聞き、書き残してきたからでもある。逆にいえば、聞き手がいたから「声」は発せられたのだ。つまるところ、女たちから見た占領史がこれまで等閑視されてきたのは社会の「聞く側」の問題だったのである。(たけもと・にいな=お茶の水女子大学ジェンダー研究所特任講師・ジェンダー史)★ひらい・かずこ=一橋大学ジェンダー社会科学研究センター客員研究員・近現代日本女性史・ジェンダー史。著書に『日本占領とジェンダー』、共編著に『戦争と性暴力の比較史へ向けて』など。一九五五年生。