「無登録移民」について学ぶ 安藤由香里 / 富山大学教授・国際人権法・難民法・入管法 週刊読書人2023年10月13日号 入管を問う 現代日本における移民の収容と抵抗 著 者:岸見太一・髙谷幸・稲葉奈々子 出版社:人文書院 ISBN13:978-4-409-24158-5 本書は、「なぜ入管収容所では、収容者にたいする暴力や死亡に至るまでの放置といった扱いが繰り返し起こるのだろうか。」について、社会学、政治学などのアプローチから学術的な考察をしている。そして、入管行政によってだけでなく、日本で社会的にも排除されている「無登録移民」が社会的、政治的に存在する日本社会を目指している。 本書で特徴的なのは、あまり使われてこなかった用語の使い方である。「有効な在留資格がない人を受け入れ国に滞在/就労の資格がある者としては登録されていない」として捉え「無登録移民undocumented migrant」を用いている。ここからわかるように「無登録」とは滞在や就労の資格がある者としては登録されていないという「事実」を示す表現であり「規範的な判断」は含まれていない点が重要である。 日本では、未だに「不法滞在者」が頻繁に使われているが、「不法」が恐ろしい犯罪者を連想させることから、ミスリーディングになるとして、他の先進諸国では、「非正規滞在者irregular migrant」「無登録移民undocumented migrant」が一般的になっている。本書では「非正規」が労働者などに使われていることを考慮し、「無登録移民」を使用している。 日本社会は、一旦ルールから外れた者に厳しい社会である。入管法というルールを破った「不法滞在者」だから、どのような目にあっても良いことにはならないが、正当化の理由になっている恐ろしい社会に気付いている日本人はそれほど多くない。その根本的な「入管への問い」にメスを入れたのが本書である。各章読み進むにつれ、読者が、何かがおかしいから、確かにおかしいと気付くのである。その一例が、ウィシュマ・サンダマリさんの死である。確かに彼女は入管法のルールを破ったため入管に収容された。しかし、だからといって、「動物のように」扱われて良いと考える人はいないだろう。1章では、その矛盾をつき、日本が国際人権条約をいかに無視してきたかについて触れている。2章では、無登録移民のほぼ全員がそうである「仮放免」がどのようなものか詳細に述べる。そして、無登録移民を「存在しない」として不可視化するナショナルな水準での法制度が現実には「法的フィクション」であることを指摘する。3章では、入管行政の特殊性を一般的な国民主権との対比で浮き彫りにする。4章では、ウィシュマさんがそうであったように、入管に収容されている人の訴えが信用されない理由として「認識的不正義」をあげ、入管職員だけでなく、医療従事者にも起こり得ることを指摘する。5章では、抵抗手段としてのハンガーストライキは、「弱者の武器」であり、非暴力的手段であるため「免罪」や国際人権団体の支援を期待できると説明する。6章では、無登録移民は当然「人間」であり、彼らの人権と人道について考察する。7章では、国家が入国管理をすることは正しいかという問いについて、カレンズの国境開放論証を分析する。「わたしたちは、大通りで駐車違反することを、正しいことだとは決して考えていないが、拘禁施設に身体を拘束されるほど厳しく罰せられるべきものとも考えていない。」に納得させられる。おわりにでは、行政の自由裁量の幅があまりに広く、認識的不正義が作用する結果、公共空間で、無登録移民が発言する機会は、平等に配分されない点を指摘する。そして、当事者である仮放免者が公の場で入管行政に対して否定的な発言をすれば、入管の「復讐」としての再収容がありえることを支援者の経験則としている。それを裏付けるように、誰が、いつ、仮放免されるのか、再収容されるのか、すべてが行政の裁量に委ねられている。 本書では、入管行政の広範な裁量権が、現代における移民の収容と抵抗を生み出しており、構造的な不正義を変えるために「入管を問う」ているのである。(あんどう・ゆかり=富山大学教授・国際人権法・難民法・入管法)★きしみ・たいち=福島大学准教授・政治学・現代政治理論。★たかや・さち=東京大学大学院准教授・社会学・移民研究。★いなば・ななこ=上智大学教授・社会学・移民・社会運動研究。