書評キャンパス―大学生がススメる本― 山形悠 / 二松学舎大学大学院文学研究科博士前期課程2年生 週刊読書人2023年10月20日号 白い航跡 上・下 著 者:吉村昭 出版社:講談社 ISBN13:[上]978-4-06-276541-1/[下]978-4-06-276542-8 高木兼寛を知っている人はどれくらいいるだろうか。高木は嘉永2年9月15日、宮崎県出身。日本近代史や文学が好きな方だったら、当時の帝国陸軍軍医の森鷗外に対して、海軍の軍医には高木兼寛という人物がいて、鷗外と脚気について争ったということくらいは記憶しているかもしれない。 一方、医学の世界では高木兼寛を知らない人はまずいない。脚気闘争で結果として高木の主張は正しかっただけでなく、明治時代において原因不明の難病であった脚気の本体を疫学的手法によって攻略し、その功績から日本疫学の父と評価されている。筆者は薬学部出身であるが、高木の名は医療人の常識として、薬剤師国家試験の過去問にも登場している。 本著はいわば高木兼寛の伝記であり、吉村昭によって史実をもとに描写されている。よく「臨床医学」のイギリス医学と「基礎医学」のドイツ医学は対比されるが、当時わが国で絶対的存在だったのはドイツ医学だった。しかし、高木の根底にあったのはイギリス医学であった。 なぜ高木はドイツ医学に染まらなかったのだろうか。そこが歴史の面白いところで、その始まりは戊辰戦争に遡る。上巻では戊辰戦争への従軍からイギリス人医師のウイリアム・ウイリスとの出会い、そして鹿児島医学校の恩師ウイリアム・アンダーソンの推薦とイギリス留学までが丁寧に記されていて、読んでいて臨場感がありわくわくする。下巻では実際に脚気の撲滅に向けて奮闘するが、鷗外らドイツ医学派の抵抗によって高木の主張は認められない。高木が評価されたのは日露戦争で陸軍が脚気による大量の死者を出した後であり、当時の学閥社会の理不尽さや困難も残酷に描写されている。 本著では高木の動向だけでなく、先ほどのウイリアム・ウイリス、長崎の海軍伝習所の医学教官ポンペ、ボードイン、新政府顧問のアメリカ人フルベッキ、戊辰戦争の主役である西郷隆盛といった著名人や、明治政府による医学教育の変遷の様子も適宜記載されている。日本近代医学史の入門書という視点で手に取ってみても良いだろう。特に上巻の戊辰戦争では、西洋医学を学んだ医師が銃弾を受けた兵士に対して躊躇なく四肢の切断を行うことで救命するシーンがある。これを目撃した高木ら従来の医師の、驚愕と感動を、ぜひとも味わっていただきたい。 医学史の入門書として他にも多くの図書が出版されているが、そのほとんどは辞書的で、物語として読んで楽しめるものではない。逆に物語として纏められているものは、断片的でコンパクトな内容になりがちである。筆者は理系から「文転」した身であるから日々実感しているが、入門書といえど、専門用語や前提知識を知らない者が読むには、ハードルが高いものが多い。だが本著のような伝記物であれば、そのハードルは下がる。『三国志』から中国史に興味を持ったり、戦国武将や刀剣から日本史を好きになるなど、周りを見渡してみれば思い当たる節はいくつもある。 昨今のコロナ禍で医療とは何なのか考え直した人も多いだろう。感染症や衛生の歴史を中心に、これまでマイナーであった医学史もにわかに脚光を浴びている。日本の現代医学は先人先哲の功績と苦労が積み重なって進化してきた。そんな先人先哲達に、たまには目を向けてみても良いのではないか。★やまがた・ゆう=二松学舎大学大学院文学研究科博士前期課程2年生。旅行とお酒が好き。夏休みは広島県尾道市に出かけ、尾道ビールの美味しさに感動しました。一押しは「きゅうりビール」です。