社会を映し出す鏡にして文化の表現 青木耕平/ 愛知県立大学外国語学部 講師・英現代アメリカ文学・文化 週刊読書人2023年10月20日号 スヌーピーがいたアメリカ 『ピーナッツ』で読みとく現代史 著 者:ブレイク・スコット・ボール 出版社:慶應義塾大学出版会 ISBN13:978-4-7664-2899-5 スヌーピーが登場する『ピーナッツ』は、一九五〇年十月、朝鮮戦争の最中に初めて新聞に四コマ漫画として掲載され、二〇〇〇年一月、作者の死と共に半世紀にわたる連載を終えた。文化作品を論じる際にしばしば引用される常套句に、「芸術は社会を映す鏡である」というものがあるが、本書『スヌーピーがいたアメリカ』は、いかに『ピーナッツ』が二十世紀後半アメリカ社会を映し出す優れた鏡であったのかを明らかとする。文芸批評家の江藤淳は、「文学作品は、ある文化の単なる反映ではなくて、少なくともその表現になっていなければならない」と語ったが、本書はまた、『ピーナッツ』が二十世紀後半アメリカ社会の鏡であるだけでなく、その文化の見事な表現でもあったことを教えてくれる。 社会を映し出す鏡にして文化の表現。それを可能にした表現者こそ、作者チャールズ・M・シュルツである。キャラクターが自立し広く大衆に愛されるがゆえに作者が逝去して以降も連載やフランチャイズが続く漫画は多いが、『ピーナッツ』はそうでなかった。『ピーナッツ』はシュルツ個人の思想と深く結びついており、作品と作者は分けて考えることができない。そんな作者シュルツの人となりを表すキーワードは、本書で繰り返し現れる「優柔不断 "wishy-washy"」であり、優柔不断こそがシュルツのイデオロギーであったと著者ブレイク・スコット・ボールは序章で断言する。著者ボールはこの語を「曖昧」と「多義的」という意味で使用し、曖昧で多義的であるがゆえに『ピーナッツ』は人種統合やベトナム戦争といった過激なトピックも扱うことができたのだと分析する。 たとえばベトナム戦争中、『ピーナッツ』は第一次世界大戦をモデルにした空中戦を描くことによって愛国者からの支持を得つつ、その敵機との終わらない戦争に疲弊する様をも描き込むことによって反戦運動の陣営からも好意的に読まれた。また、信心深いプロテスタント福音派のクリスチャンであったシュルツはイエス降誕を描くクリスマス劇を描いて宗教右派に熱狂的に感謝されながらも、彼らが眉をひそめるウーマンリブ運動をエンカレッジする漫画を描いた。人種問題が大きな火種となっている最中、『ピーナッツ』世界にはじめて黒人少年が登場するが、最後までシュルツが黒人女性を描くことはなかった。 そのようなシュルツであったが、一九八〇年代に入ってロナルド・レーガンと蜜月関係を結ぶと、彼は保守だと見做されて『ピーナッツ』は大衆の支持を失い始める。しかし興味深いことに、後年のインタビューでシュルツは自身を「リベラル」であると主張した──。本書の邦訳副題は「『ピーナッツ』で読みとく現代史」となっているが、原書副題は直訳すると「『ピーナッツ』の大衆政治(ポピュラー・ポリティクス)」である。一九八〇年代後半に文化戦争がアメリカを二分し、各々の陣営がラディカルな政治主張をし始めると同時に『ピーナッツ』は社会に影響を与えなくなったと著者は総括するが、それはすなわち『ピーナッツ』は冷戦期アメリカ政治と深く結びついた文化作品であったことを意味する。社会主義を標榜するソヴィエト連邦と自由主義の盟主アメリカが地球を二分し核を手にして睨み合っていた冷戦期、「政治にコミットしない」曖昧で多義的なリベラリズムが大衆文化に求められた。この観点から考えれば、『ピーナッツ』ほど見事に冷戦リベラリズムを体現した文化作品はない。 本書は著者ボールの博士論文が基になっている。五十年にわたる『ピーナッツ』の歴史であり、冷戦期アメリカ文化史であり、シュルツの伝記的側面も併せ持ち、膨大な二次資料や読者からのファンレターまでもが史料として引用される。これは大変な労作だ。つい先日、この若き歴史学者の次なる著作が『バットマン アメリカ神話の作成』となるとアナウンスされた。本書で見事な訳業を見せてくれた今井亮一氏の翻訳でそれが読める日を今から楽しみに待つ。(今井亮一訳)(あおき・こうへい=愛知県立大学外国語学部 講師・英現代アメリカ文学・文化)★ブレイク・スコット・ボール=ハンティンドン大学歴史学科助教・歴史学。