書評キャンパス―大学生がススメる本― 朱雅蘭 / 名古屋大学人文学研究科修士課程2年 週刊読書人2023年10月27日号 舟を編む 著 者:三浦しをん 出版社:光文社 ISBN13:978-4-334-76880-5 「謹啓 吹く風に冬将軍の訪れ間近なるを感じる今日このごろですが、ますますご清栄のことと存じます」 出版社で最も目立たない部署にいる馬締光也は、初恋の相手に恋文を書いている。 この恋文の一行目だけでもわかるように、馬締光也はとても礼儀正しく几帳面な人である。元々営業部に配属されていたが、定年間近になった辞書編集部の担当者に引き抜かれ、やがて辞書編纂を手掛けるようになる。 多くの人が一度は使ったことのある辞書。本書は、辞書が出来上がるまでの過程を辿り、出版社の目立たない片隅にある、辞書作りに関わる人々の姿を、細部まで掘り下げて描き出す。そこには辞書に人生を捧げた人、言葉そのものにこだわりを持つ人、辞書作りに不向きな人……様々なタイプの人が集まっている。そのような部署に、まじめな馬締は異動した。普段からトンチンカンな性格のせいか、最初は人間関係の築き方に苦労していたようで、辞書編集部にも溶け込めなかったが、やがて辞書に載る一つ一つの言葉について考えていく中で、周りの人との絆も深まり、運命の人にも出会えた。 この物語の主軸は辞書作りではあるが、現代に生きる人々に、言葉そのものを改めて考えさせるきっかけを与えている。 たとえば物語の中で、「愛」という言葉についての対話がある。ある辞書では「特定の異性に特別の愛情をいだき、(中略)まれにかなえられて歓喜したりする状態に身を置くこと」と書かれている。ただ、「特定の異性」という言い方では、同性愛が含まれなくなってしまうのでは、という議論だ。 言葉は常に、社会の変化に影響を受けている。知らない言葉を辞書で調べても、その解釈をどのように受け入れるのかは、利用者次第である。しかし辞書の言葉を疑って、自ら言葉を解釈しようとはめったに考えないだろう。私たちが普段、無意識のうちに使っている言葉の意味を、誤解を招かない形で、分かりやすく伝えること、それが辞書編集者が常に考えていることである。だからこそ、同じ言葉についても辞書が異なれば、解釈はまったく同じにはならない。それは一つ一つの言葉の解釈に、それぞれの辞書編集者の思いが込められているからだ。本書を読みそのようなことを考えた。 ある時代の言葉の意味を記録し、その意味を正しく伝えること、それが辞書の役目である。この物語における最も重要な目標は、「大渡海」と名づけられた辞書の出版である。数多くの既存の辞書を踏まえ、「言葉の海を渡るにふさわしい舟を編む」という思いが込められた「大渡海」は、これまでの言葉の解釈を考え直しつつ、新しい若者言葉や流行語も収録することを目標としている。途中で言葉が一つでも間違っていたら、利用者の信頼を失ってしまう。大渡海には「安心して乗れる舟」の意味が込められているのだろう。 ところで、冒頭の恋文を書いた彼のことを、どう思っただろうか。そう尋ねられると、辞書編集部にふさわしい人だと答えるかもしれない。でも、そもそも辞書編集部にふさわしいのは、どのような人だろう。本書曰く、「気長で、細かい作業を厭わず、言葉に耽溺し、しかし溺れきらず広い視野をも併せ持つ」人である。何でも簡単に調べられる時代だからこそ、与えられたものを鵜呑みにせず、ゆっくりと一つ一つの言葉と向き合って、その意味をじっくり考える時間も大事である。『舟を編む』を通して、パズルのような、言葉の奥深さをどうか感じてほしい。★シュ・ガラン=名古屋大学人文学研究科修士課程2年。一人旅と文芸創作が大好きな大学院生。最近、研究の大変さとおもしろさを味わいつつ、修論執筆を頑張っている。好きな作品は芥川龍之介の『蜜柑』と三浦しをんの『舟を編む』。