人生のままならなさに直面した女性の、率直な記録 太田明日香 / 作家・ライター 週刊読書人2023年11月10日号 精神の生活 著 者:クリスティン・スモールウッド 出版社:書肆侃侃房 ISBN13:978-4-86385-587-8 この小説は主人公がトイレで排便するところから始まるように、やたらトイレのシーンが多い。その理由は読み進めるうちにわかってくる。 私立大学の英文科でライティングと学科概論を教える非常勤講師のドロシーは、恋人のログと住んでおり、予定しなかった妊娠をしてしまう。しかし、卵子が育たず枯死卵となったことから流産を経験する。子宮内容物を体外に排出するために、ミソプロストールという薬による処置を行って六日目のところから物語は始まる。ちなみに、このミソプロストールは人工妊娠中絶にも使われる薬で、アメリカではこの薬の使用を巡って人工妊娠中絶が可能な州とそうではない州で意見が割れている。また、日本では二〇二三年に厚労省の承認を受けたばかりだ。日本では、流産したら子宮内容物は自然排出を待つか、手術によって取り出すしか方法がないが、アメリカでは自宅で薬によって排出する方法もとられている。 トイレに行くたび、ドロシーはティッシュに何かついてないかを気にする。血の色や量、ほかに体内から出てきたものをよく観察し、ときには舐めてみさえする。ドロシーにとっていまやトイレは、排泄の場だけでなく自分の体と向き合う場所なのだ。 処方箋や本では、薬を使えば体内のものが排出されるという一行の簡潔な記述にすぎないものが、実際には使えばたちまち内容物が出て妊娠が終わり、すぐに元の体に戻るというわけにはいかないことがわかる。生理が「二十八日周期というのはいつだって現実というよりも神話、平均値の問題かお月さまのつくり話で着飾った化学的に押しつけられた規範にすぎない」とあるように、生理は人によって違う。それと同じで流産にも個人差がある。しかし自分が当事者になるまではそんな当たり前のこともわからない。 ドロシーの流産は恋人のログ以外、親友も母親も誰も知らない。ドロシーは言うチャンスを逃したと言っているが果たしてそうなのだろうか。二人の収入は二人で暮らすには足りているが、余裕があるわけでもなさそうだ。貯蓄は難しくドロシーが働けなくなったり、あと一人増えたらたちまち困窮するかもしれない。はっきりと書かれてはいないが、もしかしたら最初から人工妊娠中絶をするつもりだったから言わなかったのかもしれない。しかし、だからといってドロシーが傷ついてないというわけではない。 では、ドロシーの傷とは一体何なのだろうか。ドロシーの年齢は書かれていないが恐らく三〇代半ば。かつて大学院で席を並べた同期たちは華々しく単著を出し、大学で専任の職を得ていく。一方のドロシーは非常勤に加え、本のサンプル章を書くことで収入を得ているが、年々応募できるポストは減っており、夢見ていたキャリアが叶うことはないと半ば諦めかけている。 ドロシーと対照的なのが二人目を妊娠したものの自らの意志で中絶をする親友のギャビーだ。ギャビーは中絶のため、ミソプロストールを服用する(正しい使い方は膣に挿入だが、ギャビーは間違って飲んでしまった)。薬が効くまでの間立ち会ったドロシーに「素晴らしくない?」「私たちに選択する力があるのって」と同意を求める。 選択は権利であり、力だ。しかし、選択できなかったことにはどう対処すればいいのか。 自分で終わりを選び自ら幕を引くのと、知らぬうちに幕が下ろされ、終わりがやってくるのとでは全然意味合いが違う。その状況をどうやって人は受け入れてゆくのだろうか。そんな誰しもが直面するかもしれない状況に、ドロシーは知性の力で立ち向かう。観察し、分析し、次々やってくる現状を理解し受け入れようと、ありのままに見つめようとする。 選択は権利であり、力だ。けれど、選択できなかったから駄目だというわけではない。これはそんな人生のままならなさに直面した一人の女性の、率直な記録なのだ。(佐藤直子訳)(おおた・あすか=作家・ライター)★クリスティン・スモールウッド=作家・批評家。コロンビア大学で英文学の博士号を取得。これまで五本の短編小説をThe Paris Review、n+1、Vice などの文芸誌で発表するほか、数多くの書評やエッセイも寄稿する。