暴力・権力の非対称性をえぐり出す「集団的な言語創造」 杉田俊介 / 批評家 週刊読書人2023年11月17日号 死政治の精神史 「聞き書き」と抵抗の文学 著 者:佐藤泉 出版社:青土社 ISBN13:978-4-7917-7572-9 本書は著者が主に二〇一八年以降に発表した論考を収録する。全三部構成中第Ⅰ部は「文学史からの問い」、第Ⅲ部は「生政治/死政治」と題されているが、白眉はやはり、森崎和江と石牟礼道子(そしてアレクシエーヴィチ)を中心に、「聞き書き」という文学的方法の射程を論じた第Ⅱ部「「聞き書き」と文学史への抵抗」だろう。 恥ずかしながら私は、近年再注目される聞き書きについて誤解していた。昨今の研究倫理やPC的規範に目配せしつつ、他者(当事者)の声を傾聴するという受動的姿勢によって、自己の責任や決断を回避するための捩れた権力的手法ではないか。そう警戒していたのである。森崎の『まっくら』にせよ石牟礼の『苦海浄土』にせよ、現代人がそれらのテクストを無反省に特権視したりその手法を迂闊に模倣してしまえば、リベラル仕草による新手の他者収奪を免れないだろう、と。 そうした危険が皆無とは依然思わない。だがそれはやはり皮相な早飲み込みだった。本書を読んでそう痛感した。聞き書きの手法とは、本書によれば、安全圏から他者の声を簒奪し、受動性を装って自らの正しさを担保するものではない。能動と受動、支配と被支配、加害と被害が「重なり溶け合う」ような危うい無名=無明のゾーンに踏み込みつつ、しかしまさにその時にこそ、自分(たち)が加担してきた歴史的構造的な暴力・権力の非対称性をえぐり出すことでもある。 たんに「正しく」反省するだけではなく、被支配状況の中にある他者たちの様々な抵抗の実践や苦闘を受け止めながら、支配者側、加害者側である自分たちの「肉」の内部からそれを開き直すということ。日本支配下の朝鮮慶州に生まれ一七歳までそこで暮らした植民二世の森崎が朝鮮民衆に対して複雑な葛藤を抱えて向き合い続けたように。被害者と同一化するわけにはいかない。しかし支配側、加害側に生まれたことの罪悪感を自民族の内部だけでいくら深めてみても足りないのだ。だから聞き書きは不遜で不穏な試みであるしかない。しかし森崎/石牟礼らはその危うさを決して避けなかった。避けられなかったのである。 聞き書きは、つねに聞く+書くという相互作用の中にある、という一般的な話ではない。もっと強い意味で、あるいは根源的な意味で――森崎や谷川雁、上野英信らが参加した一九六〇年前後の「サークル村」の実践がそうであったように――それは「集団的な言語創造」なのである。著者が強調するのはそのことだ。 私的所有的な言語使用は、現実や対象を観念化しつつ所有しようとする。たとえば死の観念と死体という肉が分離される。こうした分離は、死や出産に携わる人々が不浄とされ差別視=禁制化される、という事態と深く関わる。この時、聞き書きとは、観念/肉体が分離される手前の、未だ言葉の形をとらない「まっくら」なゾーンに迫るための営みでもある。炭鉱で労働する女の肉体を語る言葉や、腹に子を宿した身体を語る言葉がそもそも存在しない。そこが森崎の出発点だった。著者は藤本和子の名著『塩を食う女たち 聞書・北米の黒人女性』に触れつつ、聞き書きとはすでにつねに翻訳行為であり、しかも「起点となる言語のない「翻訳」」である、と言う。翻訳としての聞き書きとは、正史や文学史によって抑圧された無明=無名の言葉、歴史の沈黙の底に埋もれた未生の言葉を、集団的な文化運動と共同労働によって産み直していくことなのだ――本書で繰り返し強調されるように、聞き書きが特に女性同士の間で実践されてきたのも偶然ではない。 しかしそれは繰り返すが不穏で不遜な試みでもある。水俣の漁民たちにとって「天のくれらすもん」としての魚を喰うことこそが天上の「栄耀栄華」(石牟礼)であるように、他者の言葉を聞き書きするとは、他者の中の語りえない沈黙=まっくらの領域に孕まれた未生の言葉を「命」としていただく、ということをも意味するからだ。漁民にとってすら魚を採って食べることは「罪の自覚」と無縁ではない。ただしそれは近代的な所有や負債の原則に基づく返済の対象にもなりえない。命とはもとより返済不能なもの、私的言語や等価交換には回収しえないものだからだ。「天」の分け前によって成り立つ経済――聞き書きとは、根源的に、そうした共同労働的な言語創造と非商品経済的な命の交換に根差すものなのである。瞠目すべき本書の聞き書き論は、現在進行形の、特定の他者たちを「すでに死体とみなす政治」に対する「抵抗」の空間をも開くだろう。(すぎた・しゅんすけ=批評家)★さとう・いずみ=青山学院大学教授・近現代日本文学。著書に『戦後批評のメタヒストリー 近代を記憶する場』『国語教科書の戦後史』『一九五〇年代、批評の政治学』など。一九六三年生。