文学からブルターニュ研究にアプローチする 鶴岡真弓 / 多摩美術大学名誉教授・ケルト芸術文化研究者 週刊読書人2023年11月24日号 抵抗のブルターニュ 言葉と文化を守った人々の戦い 著 者:大場静枝 出版社:小鳥遊書房 ISBN13:978-4-86780-019-5 共同体や国民にとって「言語」は生ける肉体にして精神の血である。ヒトは歴史の根源で「ことば」を発話し、耕地や聖域や町に集まり始め、共に幸福になるための創造に着手した。しかし二一世紀まで歩み来ても、同じ言語/文化の隣人同士が攻撃し合い殺戮にエスカレートする。人命が瓦礫のように潰されていく。その幼児が覚え始めた、その古老が歌ってきた「言語」は、流される血とともに消えてしまう。遠望ではありえない。その私たちの過酷な「今ここ」に、言語/文化の死守と再生とは何かという問いを掲げる大部な一書が上梓された。 ヨーロッパの地の果てといわれた、フランスのケルト語文化圏、ブルターニュの人々のその受難と抵抗の歴史。危機を母胎に誕生する民族文学。さらに最新の教育現場の挑戦まで、多角的に探究してきた大場氏による、ライフワークと呼べる本書である。 従来ブルターニュ研究は「はじめに」にある通り歴史学・言語学・民俗学を中心に学際的におこなわれてきたが、この地に生まれ来た魂の歌の集成から再生する「文学」からのアプローチは乏しかった。フランスは中央集権か地方分権かの二つ「ナショナルなもの」のはざまに揺らぐ大国であり、近代国民国家創世の時代に伝統社会の言語文化を切り捨てる汚点を遺した。 著者はまず第一部で、ブルトン語への抑圧の背景は単に地域問題ではなく、一八世紀中葉に起こるヨーロッパ規模の変化、即ち「古典古代」から「野蛮な北方」への重心移動を見据え、諸国間の比較論的分析が重要であることを鋭く説く。国家統一で遅れをとっていたドイツに比してもフランスでは、「民俗」文化の理解にリンクすべき文学の状況は遅れていた。ゲーテが『詩と真実』で批判した通り、一八世紀半ば「古典」の理性と英知を衒学的に墨守するだけの「老国」となっていたのだ。ケルト語文化圏の一つスコットランドから発信された、ロマン的で自由な情感を詠った『オシアン』への反応も鈍かったほどの「生けることば」への無理解は、ブルターニュの言語文化に受難をもたらす。 しかし第二部 「民族主義と文学的営為」で大文字の国民文学ではない「民族文学」の誕生が訪れる。ラ・ヴィルマルケのブルターニュ古謡集『バルザス=ブレイス』(一八三九年:山内淳監訳・大場静枝他共訳・彩流社)の登場は、フランス中央のサロンを突き崩す「母/語」ブルトン語の精髄を初めて開扉する。著名なユゴーやラマルティーヌ等にも手渡されたそれはブルターニュ・ナショナリズムの「源」となり、「信仰と郷土愛に生きた詩人ブレイモール」(第五章)、「社会参加の詩人カミーユ・ル・メルシエ・デルム」(第六章)、「ブルトン語文学の創造を希求した作家ロパルス・エモン」(第七章)等の試行が本邦初の文脈で浮き彫りにされる。第三部では 戦後の言語放棄と言語復興運動などの現実が丹念に分析されて力強い。 その中で本書の要は、著者の真摯な客観において「二つの言語と二つの祖国」の境界にラ・ヴィルマルケこそが立っていたことを明記していることだ。「フランスがその心によってケルト的であるのと同様に、アルモリカ(ブルターニュ地方の古称)は同じ国旗のもとでフランスなのだからです」。この意識の均衡はしかし、むしろ版を重ねた立役者の闘志を思わせる。「ガリア人のワイン、そして剣の舞」「アーサー王の進軍」「共和派」はじめ『バルザス=ブレイス』第二版に追加された大半の「歌」は、ブルターニュを不当に支配した抑圧者に対する「戦いの歌」か、悲運な愛国者たちへの「哀歌」だったという。 これは同じケルト語文化圏、アイルランド出自のオスカー・ワイルドが、「アングロ=サクソンの英語」を話す大英帝国は、「ケルト/アイルランド語」の人々を抑圧、支配してきたが、「英語」に美を加えたのは、誰あろう我々アイルランド人であると発したことを想起させるのだ。 私たちは今、隣人の文化をも破壊し合う分断の世界に生きている。何を守り、何を受け容れ、いかに生きる道を探すのか、本書から学ぶことは計り知れない。これは過去形の歴史書や民俗史(誌)を越え、人間の普遍的なイシューとして未来を拓こうとする「言語/文学」に臨場する真の探究者の著であると思えるからである。(つるおか・まゆみ=多摩美術大学名誉教授・ケルト芸術文化研究者)★おおば・しずえ=広島市立大学教授・フランス文学・地域文化研究(ブルターニュ地方)。