絶妙な生態システムを存続させるために 三中信宏/ 東京農業大学客員教授・進化生物学・生物統計学 週刊読書人2023年12月1日号 ソバとシジミチョウ 人-自然-生物の多様なつながり 著 者:宮下直 出版社:工作舎 ISBN13:978-4-87502-557-3 『ソバとシジミチョウ』といういかにも耳あたりのよい書名からは、本書が生態学の最新の研究成果を踏まえた現代社会への問題提起と将来への提言を訴える内容は想像できないかもしれない。多くの読者にとって、「地球環境問題」や「生物多様性保全」はすでに聞き飽きたことばだろう。しかし、それらの問題が、今を生きるわれわれ現代人のライフスタイルにどのような影響を及ぼしているのか、そしてその解決のためには近未来に向けてどのように舵取りすればいいのかについては今なお議論百出だ。 著者はとても戦略的に本書を組み立てているように評者は感じ取った。冒頭の第1章「人と自然の歴史 生物としての「ヒト」から社会を創る「人」へ」は、地域環境とそこに棲息する動植物との関わりのもとに人類がどのように社会を構築してきたかを概観する総論だ。人口増加や産業発達に起因する環境資源の過剰搾取すなわち「オーバーユース」についてはこれまで繰り返し問題視されてきた。これに対して、著者が着眼するのは、近代文明の進展とともに生じた「脱自然化」が人間を自然から遠ざけ、その結果として環境を放置する「アンダーユース」をもたらしたという点だ。 人口の減少と偏在が顕著になってきた日本では、この「アンダーユース/オーバーユース」がさまざまな問題を引き起こしていると著者は指摘する。続く第2章「里山の多様な生物 景観―生物―人間活動の相互作用について」では、いわゆる〝里山〟に特徴的な「モザイク性」——人為的な農作地と自然環境の混じり合い——を考慮した生物多様性の保全が必要になると著者はいう。近年、日本のいたるところで表面化してきたシカやイノシシなど野生動物による被害やアメリカザリガニなど外来侵入動植物の分布拡大の問題について、著者の研究グループによる知見を踏まえた考察が展開されている。 本書でとりわけ印象に残るのは、著者が生まれ育った長野県伊那地方の里山環境を論じた第3章「ソバとシジミチョウ共に生き活かされる「つながり」の不思議」だ。人為と自然が絶妙に絡み合う里山という場において、動植物がどのように生き延びることができるのか、あるいは逆に絶滅への道をたどるのか。著者はこの伊那という地域を研究フィールドとして、人間と生物が組み合わさって生態系・景観というより大きなシステムをいかに構成しているかを具体的な事例研究を通じて明らかにする。書名が意味するところは、信州のソバ畑の周縁に分布するコマツナギがミヤマシジミの生存を支え、そのミヤマシジミがソバの花粉媒介をするという生態的つながりだ。著者自身の原風景の記憶と現状とのギャップを認識できたのは地元出身者ならではの目利きだ。 最後の第4章「人と自然のリアルな関係 人工資本で充満した世界からの脱却」で総括されているように、このような絶妙な生態システムを将来にわたって存続させるには適切な人為の介入が必要となる。著者は伊那谷の現地に入り、地域住民や行政機関とも協力しながら、よりよい里山保全の方策を模索し続けている。それは、アカデミアから市民科学(シティズン・サイエンス)への道を拓くさらなる可能性を秘めている。 民俗学者・柳田國男が養子に入った柳田家のルーツは信濃飯田藩の家臣だった。伊那谷に縁をもつにいたった柳田は『信州隨筆』(1936年)の「自序」において、ローカルな地域での研究がゆくゆくはグローバルな知の構築につながることを期待しつつ、こう述べている「徒らに鄰家翁の歎賞を博して、能事了れりとするやうな郷土研究を揚棄してしまはなければ國は朗かにはならない。學問の本旨は要するに利他であり、郷土を研究の對象とすることも、今はまだ少しばかりふくれた利己主義に過ぎないからである」。〝ソバとシジミチョウ〟はたしかにローカルな生物相の一部だ。しかし、そこから導かれる生態学的な知見は他のもっとグローバルな場面にも敷衍できるだろう。著者はそのことを身をもって示している。一読に値する新刊である。(みなか・のぶひろ=東京農業大学客員教授・進化生物学・生物統計学)★みやした・ただし=東京大学大学院教授・生態学。著書に『となりの生物多様性』など。