惜別し、悼むことによって言葉は開かれた 山﨑修平 / 詩人・作家 週刊読書人2023年12月1日号 ドードー鳥と孤独鳥 著 者:川端裕人 出版社:国書刊行会 ISBN13:978-4-336-07519-2 川端康成の言わずと知れた「雪国」は、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」という書き出しで始まる。読者は作中人物と時を同じくして「雪国」を「発見」するのである。小説「雪国」は、その後いくつもの展開をしてゆく構造をとるが、冒頭の「発見」がすべての基調としてあることに揺らぎはない。『ドードー鳥と孤独鳥』の場合は、「絶滅」の「発見」が一冊を通じてある。つまり、存在しなくなるもの、を「発見」するという認識を読者と共有することからはじまる。 第一章の「百々谷と百々屋敷」では、科学記者であるタマキと、ゲノム研究者であるケイナは幼馴染であり、幼少の時分よりともに絶滅動物に思いを馳せていたことが描かれている。長じて偶然の出逢いを果たす二人は、幼なき頃の「発見」を確かめるように「絶滅」の謎を追い求めてゆくのだが、この章では謂わば、のちの動機となる部分に紙幅が割かれている。 第二章のタイトルは「近代の絶滅」である。評者はここで、大いに狼狽えた。「ドードー鳥と孤独鳥の絶滅」ではなく、「近代の絶滅」というタイトルからして、本書が視座とし、捉えているものが「近代」を超克したものであり、「現代」というものが近代の先にあるものということであるからだ。或いはこの捉え方は生物学のそれと、近代文学のそれとは異なるものなのかもしれない。しかしながら、先述したように「絶滅」という、存在しなくなるもの、無を描くということは、「近代」の一つのテーマであることに相違ないのではないか。「近代」とは敢えて一言で暴力的に述べてしまえば「私」であると評者は考える。「絶滅」という、「近代」社会においては代替の余地のない、取り返しのつかない事態に対峙するタマキの思考は、「近代」の価値観や思考を生まれながらにして体得している/しまっている現代人たる私たちにも突き刺さる問題として示されることになる。 第三章「堂々めぐり」、第四章「ドードー鳥と孤独鳥」、そして終章と、前章までの緻密な下拵えをもとに、物語は加速してゆく。登場人物が専門家であるため、生物学のやや専門的な記述が怒濤のように描かれてゆくのも、評者が専門外であるからこそ、知らなかったことを知る、分からなかったことが分かる知識欲をこれでもかと刺激してくれる。何より、膨大な史料を渉猟し、精密に書かれているということが、謝辞や文献一覧からも明らかになっている。こうした蓄積や積み重ねによって丁寧に、そして冷静に書かれているものだからこそ、「絶滅」という、恐竜などに抱く、心昂り興奮を禁じ得ないものとの差異が際立ってゆく。文体も、感情を描く軽やかでスピードを伴う文と、学術用語を交えた緻密な文が交錯してゆく。「発見」への興奮が途絶えない構成となっていると考える。 物語は、「近代の絶滅」、つまり現代を生きるわたしたちにとって、避けられない倫理的な問題を示してゆく。一度「絶滅」した生物を復活させるという問題は、科学技術の進化、生物学的な問い、なにより「生」と「死」という分かち難い誰にも与えられていたものを問い直すことになる。「絶滅」という、もう会えない喪われたものに思いを馳せていた幼少期のタマキとケイナにとって、「絶滅」ではなくなるかもしれないということが伝えられたら、どのような反応を示すのだろうか。 序盤に描かれる「父」との対話は、図らずも作者が読者に伝えたいメッセージのように響く。「絶滅動物はもう生きていないわけですから、忘れてしまったら、もういなかったことと同じになってしまうんです。こうやって思い出して、身近に感じてあげることは、大切だと思いますよ」。文学は、いや、書くことは忘れてしまうことを忘れないように留めるものでもあった。もう会えないものを惜別し、悼むことによって言葉は開かれていった。 本書は、「発見」を描きながら、近代を問い直し、また捉え直す堂々とした一冊である。(やまざき・しゅうへい=詩人・作家)★かわばた・ひろと=作家。著書にノンフィクションの『クジラを捕って、考えた』『我々はなぜ我々だけなのか アジアから消えた多様な「人類」たち』『ドードーをめぐる堂々めぐり 正保四年に消えた絶滅鳥を追って』、小説に『銀河のワールドカップ』『空よりも遠く、のびやかに』『青い海の宇宙港』など。一九六四年生。