「比較しがたいものの比較」から見えるもの 大嶋えり子/ 慶應義塾大学准教授・フランス政治 週刊読書人2023年12月15日号 フランスのイスラーム/日本のイスラーム 著 者:伊達聖伸(編著) 出版社:水声社 ISBN13:978-4-8010-0759-8 どのように日仏のイスラームの比較が可能なのか、と疑問に思いながら本書を読み始めた。日本のムスリムの人口はフランスのそれの二十五分の一に留まり、歴史的背景やメディアによる扱いも異なるからだ。編者の伊達聖伸も「比較できないものの比較という無謀な企てと言うべきなのだろうか」(一二頁)と「序」で述べ、「比較しがたいものの比較」であることを認めている。日仏比較といっても、イスラームの何を比較するのかという問題設定の難しさもある。そうした意味でも、本書は小さからぬ課題に挑んでいる。 本書は、日仏の政教関係や、それぞれの社会におけるイスラームとムスリムの位置づけやそれらをめぐる社会的課題を取り上げている。具体的には、日仏の歴史的・社会的文脈を振り返る部、「過激」と「リベラル」なイスラームを検討する部、そして研究・教育・食を扱う部の三部に分かれている。数本の論文に絞って以下で検討していきたい。 第Ⅰ部に収録されている樋口直人の「『遠くて遠い国』と『近くて遠い国』の間」という論文は、日本におけるムスリムと在日コリアンに対する認識をポストコロニアリズムとオリエンタリズムの観点から分析している。日本の実情が中心的であるが、日仏の比較の視座を持ち、フランスにおけるムスリムがポストコロニアリズムの観点から排除されるのに対し、日本でムスリムはオリエンタリズムにより規定された、時に肯定的にもなるまなざしを向けられ、在日コリアンのようにポストコロニアリズムに規定された排除の対象とはなっていないことを示している。データにより裏付けられた明確な主張を展開し、本書の比較研究というコンセプトに巧みに挑戦した論文だ。ただし、ポストコロニアリズムをめぐる諸問題を日本政府や日本社会が克服すれば、在日コリアンへのヘイトがおさまるのかといえば、北朝鮮政府の行動も無関係ではないはずで、この点を論じていないことから、さらなる研究の発展に期待したくなる。もちろん南北の分断状態自体がポストコロニアルな問題であることは言うまでもない。 オリヴィエ・ロワの「1995年以降のイスラーム・テロリズムに見られる新たな側面」と藤原聖子の「日本に『過激主義』はないのか?」の対となる二本の論文は、第Ⅱ部において日仏比較を意識しつつ、それぞれの国における過激思想を検討している。宗教実践の過激化が暴力につながるのではない、とロワが主張するのに対し、藤原はイスラームの過激化あるいはロワの考える過激性のイスラーム化のどちらかがテロの原因になっているのではなく、宗教的過激思想は社会的公正の追求と宗教の本来の姿の追求の合成物だと応答する。この二本の論文から、ジハード主義が衰退しつつあるものの今でもフランスが直面するテロの問題と、日本における過激思想の周縁化と社会に対する諦念の定着という、それぞれの社会的脅威の様相が立ち現れる。 第Ⅲ部で取り上げられているイスラーム教育に関しては、J-J・ティボンとF・キアボッティの「フランスにおけるイスラーム教育とイスラーム学教育」、そして見原礼子の「オルタナティブ教育の場としてのイスラーム学校」を通じて、日本・フランス・オランダの現状が見えてくる。初等・中等教育に限れば、日仏でイスラーム学校はそれぞれの学校制度の中で公認を受けていないかごく部分的にしか受けておらず、公認を受けているイスラーム学校を多く抱えるオランダとは事情が異なることがわかる。フランスにおいてはライシテを遵守したイスラーム教育を実践できるイマームの育成が一つの課題となっている。だがいずれの国においても、ムスリム・コミュニティはイスラーム教育を求めており、主流社会からの分離を目指す閉塞的な学校空間ではなく、イスラームに関する多様で豊かな知識の獲得と社会統合の両立を希求している。 日仏の相違点が見えてくるのもさることながら、新たな問いに読者を導き、社会的課題を明らかにした本書は、「比較しがたいものの比較」という目的を充分に果たしたといえるだろう。(おおしま・えりこ=慶應義塾大学准教授・フランス政治)★だて・きよのぶ=東京大学大学院総合文化研究科教授・宗教学・フランス語圏地域研究。著書に『ライシテから読む現代フランス』など。一九七五年生。